つらつら思うこと

特にテーマは決めずに書きます

形容詞連用形の音便と接続〜枕草子

http://nobinyanmikeko.hatenadiary.jp/entry/2019/08/15/122240


枕草子(枕冊子)】〈本文は日本古典全書に拠る〉


《動詞に接続》

★みじかき燈臺に火をともしていと[明かう]かかげて……140段、清げなる男の雙六を
★[明かう]なりて、人のこゑごゑし、日もさし出でぬべし……34段、ふみ月ばかりいみじう暑ければ
★あまり[明かう]なりしかば、「葛城の神、いまぞすぢなき」とて……157段、宰相の中将齊信


《形容動詞に接続》

★いますこし[明かう]顕證なるに、つくろひそへたりつる髪も唐衣のなかにてふくだみ……262段、関白殿、二月廿一日に法興院の


《係助詞に接続》

★おのづからも、もの知り、世のなかもどきなどする人は[あいなう]ぞ、かしこき御ことにかかりて……262段、関白殿、二月廿一日に法興院の


《連用中止法》

★目もあやにあさましきまで[あいなう]、おもてぞ赤むや……179段、宮にはじめてまゐりたるころ
★つれづれなるさとゐのほどに書き集めたるを、[あいなう]、人のためにびんなきいひすぐしもしつべきところどころもあれば……301段、この冊子、目に見え、心に思ふことを

形容詞連用形の音便と接続〜伊勢物語

知恵袋でこんな質問があった。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14211949119

どうもきちんと調べた人が居ないようなので、形容詞連用形のウ音便と接続との関連について調べてみたい。


伊勢物語


《動詞に接続》
★みこいと[いたう]あはれがりたまうて……天福本85段
★かのこ[いたう]うちなきてよめる……天福本84段
★おとこ女を[いたう]うらみて……天福本74段
★[いたう]おもひわびてなむはべる……阿波国文庫旧蔵本46段
★いと[いたう]心やみけり……天福本5段
★いと[いたう]なきていづかたにもとめゆかむと……天福本21段
★女は[いたう]なきけり……天福本65段
★おとこいと[いたう]なきてよめる……天福本69段
★あめも[いたう]ふりければ……天福本6段
★おとこいと[いたう]めでていままでまきて、ふばこにいれてありとなんいふなる……天福本107段
★もの[いたう]やみてしにいたりければ……阿波国文庫旧蔵本59段

★となりのくにへいくとて[いみじう]うらみければ……天福本72段
★[いみじう]なく人あるをきゝつけて……天福本6段
★神さへいと[いみじう]なり……天福本6段
★あめの[いみじう]ふりくらして……阿波国文庫旧蔵本A段
★つとめてなを[いみじう]ふるに……阿波国文庫旧蔵本A段

★をのがよゝになりにければ[うとう]なりにけり……阿波国文庫旧蔵本21段

★そのはな、やよひのつごもりに[おもしろう]さきたりける……阿波国文庫旧蔵本80段
★そのやましなのみやに、たきおとし、みづはしらせなどして[おもしろう]つくれるに……阿波国文庫旧蔵本78段
★ふえをいと[おもしろう]ふきて……阿波国文庫旧蔵本65段

★いと[かしこう]めぐみつかうたまひけるを……天福本43段

★この女かく書きをきたるを[けしう]心をくべきこともおぼえぬを……天福本21段

★なみのいと[しろう]たつをみて……阿波国文庫旧蔵本7段、泉州本7段
★さ月のつごもりに雪いと[しろう]ふれり……天福本9段

★ほたる[たかう]とびあがる……泉州本45段

★むかし、なま心ある女ありけり。おとこ[ちかう]有りけり……天福本18段

★ほたるの[なまたかう]とびあがるを……阿波国文庫旧蔵本45段

★ときよへて[ひさしう]なりにければ……阿波国文庫旧蔵本82段
★いと[ひさしう]ゐていでたてまつらず……天福本39段

★かたちのいと[めでたう]おはしけるを……阿波国文庫旧蔵本6段

★かうちへいぬるがほにて見れば、この女いと[よう]けさうじて……天福本23段


《動詞に接続(副助詞を間に挟む)》
★ほとけ神にも申しけれど、いやまさりにのみおぼえつゝ猶わりなく[こひしう]のみおぼえければ……天福本65段


《動詞に接続(挿入句あり)》
★ゆきいと[しろう]木のすゑにふりたり……天福本67段

★[ものこゝろぼそう]すゞろなるめをみることとおもふに……阿波国文庫旧蔵本9段


補助動詞に接続》
★この女いと[ひさしう]ありて、ねんじわびてやありけん……阿波国文庫旧蔵本21段


補助動詞に接続(係助詞を間に挟む)》
★わかきおとこ[けしう]はあらぬ女を思ひけり……天福本40段
★あめのしたのいろごのみのうたにては[なをう]ぞありける……阿波国文庫旧蔵本39段〘※「伊勢物語に就きての研究・補遺篇」(福井貞助)では[なをう]とするが、「異本対照伊勢物語」(片桐洋一)では「なを」となっている〙


補助動詞に接続(副詞を間に挟む)》
★[にくう]はたあらざりければ、しば\/いきけれど……阿波国文庫旧蔵本42段


《形容動詞に接続》
★[あやしう]さやうにてあるべき女ともあらず見えければ……天福本15段


《形容動詞に接続(係助詞の挿入あり)》
★みやづかへ[いそがしう]こゝろもまめならざりけるほどに……阿波国文庫旧蔵本60段


《名詞に接続》
★月日へてをこせたるふみに[あさましう]たいめせで……阿波国文庫旧蔵本46段
★月日へておこせたるふみに[あさましう]たいめむせで……泉州本46段


《接続助詞に接続》
★おとこいと[うれしう]て、わがぬるところにゐていりて……阿波国文庫旧蔵本69段

★こゑは[おかしう]てぞあはれにうたひける……天福本65段

★この女いと[かなしう]て、うまのはなむけをだにせむとて……天福本115段

★つれ\"/と[ものがなしう]ておはしましければ……阿波国文庫旧蔵本83段

★まだいと[わかう]て、きさきのたゞにおはしける時とや……天福本6段


《係助詞に接続》
★としごろ、よそにはつかうまつれど[まぢかう]はまだつかうまつらず……阿波国文庫旧蔵本78段


《連用中止法》
★しばしいきけれどなを[うしろめたう]……阿波国文庫旧蔵本42段
★しばしばいきけれどなお[うしろめたう]……泉州

★わがいらむとする道は、いと[くらう]ほそきに……天福本9段

知恵袋の回答/2019.8.12

学校文法的には活用語尾の部分の表記で、

い⇒イ音便
う⇒ウ音便
む・ん・(不表記)⇒撥音便
つ⇒促音便

という風に教えられているのでしょうね。

ただ、音便というのは音韻変化の問題なので、本来は文法ではありませんから、文法の専門家も音便のことは余り詳しくはないままに教えているのが現状だろうと思います。

「詠みて⇒詠うで」「呼びて⇒呼うで」のように学校文法ではウ音便として扱われていても実際には撥音便だった蓋然性のあるものもあります。(学校の授業ではウ音便としないと✕にされるのでしょうが)

撥音不表記の「あなり」(「なり」は伝聞推定)の場合、学校文法では元の形を「あるなり」と教えているので、これも「あるなり」とか連体形とか書かないと✕にされるのでしょうが、上代においては「ありなり」という終止形接続であったことが判っています。

促音便の場合は「行きて⇒行って」のように教えられるのでしょうが、このような表記が一般的になるのは室町時代以後で、古典の授業で主に取り上げられる平安期には「つ」で表記された例はまず無いと思います。

知恵袋の回答/2019.8.10

★古語『ふつ』〈「捨てる」の意〉を項目として立てている古語辞典

◎「精解古語辞典」(金子武雄・三谷栄一、1970年、金園社)
◎「例解古語辞典/第三版」(佐伯梅友小松英雄・森野宗明etc.、1997年、三省堂
◎「ベネッセ古語辞典」(井上宗雄・中村幸弘、1997年、ベネッセコーポレーション
◎「三省堂詳説古語辞典」(秋山虔渡辺実、2000年、三省堂
◎「角川全訳古語辞典」(久保田淳・室伏信助、2002年、角川書店
◎「学研全訳古語辞典」(小久保崇明、2003年、学習研究社
◎「全文全訳古語辞典」(北原保雄、2004年、小学館
◎「最新全訳古語辞典」(三角洋一・小町谷照彦、2006年、東京書籍)

★古語『ふつ』〈「捨てる」の意〉を項目として立てていない古語辞典 

◎「角川古語辞典/改訂版」(武田裕吉・久松潜一、1963年、角川書店
◎「角川新版古語辞典」(久松潜一・佐藤謙三、1972年、角川書店
◎「講談社学術文庫古語辞典」(佐伯梅友・馬淵和夫、1979年、講談社
◎「角川最新古語辞典/増補版」(佐藤謙三・山田俊雄、1980年、角川書店
◎「古語大辞典」(中田祝夫・和田利政・北原保雄、1983年、小学館
◎「学研新古語辞典」(市古貞次、1986年、学習研究社
◎「岩波古語辞典/補訂版」(大野晋佐竹昭広・前田金五郎、1990年、岩波書店
◎「最新詳解古語辞典」(佐藤定義、1991年、明治書院
◎「講談社キャンパス古語辞典」(馬淵和夫、1995年、講談社
◎「古語林」(林巨樹・安藤千鶴子、1997年、大修館書店)
◎「新明解古語辞典/第三版」(金田一春彦、2001年、三省堂
◎「全訳全解古語辞典」(山口堯二・鈴木日出男、2004年、文英堂)
◎「旺文社古語辞典/第十版」(松村明・山口明穂・和田利政、2008年、旺文社)

四谷二中のこと④先生の思い出B

http://nobinyanmikeko.hatenadiary.jp/entry/2019/08/02/172451

★池上正道先生

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池上先生は技術科(私が1年の時は職業科といったが、2年から技術科と変った)の先生。
1年・2年の時の職業科⇒技術科は田子敏行先生だったから、池上先生に教わったのは3年生の時の一年間だけだった。

小柄で高い声で早口で話されたので、いかにも教師の権威などとは無縁の感じだったのだけれども、就職組の子からは慕われていた。

その理由が卒業して間もなく解った。
NHKのドキュメンタリー番組で池上先生が取り上げられていた。毎週1回夜の学校に就職した子を集めて悩み相談へのアドバイスなどをされている池上先生の姿を見て、なるほど慕われるわけだと納得が行った。

さらに数年後には別の面で池上先生が有名人になっていることを知った。
池上先生が体罰禁止運動の最先端に立っている事を知ったのだ。
https://www.amazon.co.jp/%E4%BD%93%E7%BD%B0%E3%83%BB%E5%AF%BE%E6%95%99%E5%B8%AB%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E2%80%95%E4%BD%93%E9%A8%93%E7%9A%84%E9%9D%9E%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E6%95%99%E5%B8%AB%E5%AE%A3%E8%A8%80-1983%E5%B9%B4-%E9%9D%9E%E8%A1%8C%E5%85%8B%E6%9C%8D%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%80%884%E3%80%89-%E6%B1%A0%E4%B8%8A-%E6%AD%A3%E9%81%93/dp/B000J7CYHG/ref=mp_s_a_1_2?qid=1564929971&s=books&sr=1-2

もうひたすら尊敬するしかない。中学時代は何か頼りない先生のように思っていたのを恥じるのみだ。

★内山信先生

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内山先生は音楽の先生。芸大を卒業されて教師として最初に赴任されたのが四谷二中で、私たちは先生の最初の教え子だった。
私たちが2年になる時に赴任されて、私達の卒業とともにに四谷一中に転任されたので、四谷二中には二年間しか居られなかった。

最初の朝礼での新任先生の紹介で、名前を呼ばれてマイクに向って歩き始められた途端にマイクのコードに足が引っ掛かってスッテンコロリンと転倒されるハプニングがあったので、小柄でややずんぐりむっくりの体形とも相まって、内山先生には三枚目の印象がつきまとってしまった。

内山先生で印象に残っているのは、3学期のある日の授業。
その日、突然、「これは僕が作った歌だけど……」と言われて一つの歌を歌わされた。「幸せなら手を叩こう 幸せなら手を叩こう 幸せなら態度で示そうよ ほら皆で手を叩こう……」
その時は「変な歌!」と思っただけだった。

それから一年ほど経った頃、TVでこの歌が歌われていたので「何だ、『僕が作った歌』っていうのは嘘だったのか」と思った。

それからさらに半年余り経った1964年の秋頃に、新聞に「坂本九が『幸せなら手を叩こう』という歌をレコーディングしたいと思っているのだけれど、この歌の作者が分からず困っている。作者は是非名乗り出てほしい」と書かれていたので驚いた。えっ!?もしかして内山先生の言われた事は本当だったのかな?。

しかし、この時は誰も名乗り出る人は無いままに、作者不詳ということでレコーディングされた。

それから長い歳月が流れ、坂本九も事故死した後で作者が名乗り出たとして、現在は作詞者・作曲者が著作権登録されているのだけれど、それは内山先生とは別人の名前だった。

結局、事実はどうだったのだろう?私にとってはいまだに謎のままだ。

なお、昭和62年の同窓会名簿を見ると、内山先生は福岡教育大学助教授と書かれていたので、「おお、出世されたんだな!」と思った。

★河野先生

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河野先生は音楽の先生。1年の時の秋に退職されて、同窓会名簿の旧職員にも記載が無いので河野先生としか覚えていない。
若くて極めつきの美人で優しかったから生徒には圧倒的に人気があった。
秋に結婚されて寿退職されたので教わったのは短い期間だったけれど、河野先生の授業は毎回楽しみにしていた。
河野先生が退職された後、後任の先生がやりにくそうにされてたのを思い出す。

★岩永朝也先生

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岩永先生は美術の先生。朴訥な話し方であんまり偉ぶったところも無い友達のような先生だった。ほとんど怒った岩永先生の記憶は無いくらい優しい先生だった。
3年生の秋に岩永先生が結婚されて、結婚式の翌日の最初の授業が私達のクラスだった。
ところが始業時間を10分過ぎても先生は現れない。どうしたことかと学級委員の私が職員室に行ってみると、先生はご自分の席でボーッとしておられた。「あれ?先生どうされたんですか」というと、「え?あ~!授業があったんだ〜!」と大慌てで教室にやってこられた。
先生が現れると生徒達は一斉にヒャーヒャー言って冷やかすし、先生は頭を掻きながら「いやあ、結婚って良いもんだねえ」と言ったりで、この日はまともな授業にはならなかったけど、岩永先生の人柄の良さが表れていて忘れられない場面だった。
ネットで見ると2013年に国分寺で岩永朝也遺作展という展示があった(http://shinyouga.net/activity/%E5%B2%A9%E6%B0%B8%E3%80%80%E6%9C%9D%E4%B9%9F%E3%80%80%E9%81%BA%E4%BD%9C%E5%B1%95/)ようなので、2012年~13年頃に亡くなられたのだろうか。

★安蔵復也先生

安蔵先生は社会科の歴史の先生。担当学年が違うので、安蔵先生の授業を受けたことは無かったが、クラブが社会部だったので、社会部の顧問の先生としてお世話になった。
2年の前期は私が社会部長を務めたが、夏休みに安蔵先生の提案で狛江町(当時)の地理・歴史・民俗文化などを調査してレポートを作成したのは忘れられない思い出になった。
当時は旧四谷区から新宿区になってまだ20年経っていなかったので、旧四谷区の林間学校として使われた施設がまだ残っていて、ここを無料で使えたのはありがたかった。
あの頃の狛江は一面の田圃や畑の至る所に小さな丘があって、その小さな丘がどれも古墳だった。
それから僅か7、8年後に私は狛江に部屋を借りて2年ほど住んだが、その時にはもう古墳は跡形も無く消えていた。千数百年もの間人々が守り続けて来たものがほんの数年で消えてしまった事にショックを受けた。
古墳のある狛江の風景の最後の姿を見ることができたのも安蔵先生のおかげと感謝している。

卒業時の名簿では安蔵先生の名は旧職員の所に載っているので、どうやら私が3年になる時に先生は都立葛西工業高校に異動されたようだ。
ということは社会部の顧問は別の先生が引き継がれたのだろうけど、3年の時の顧問の先生が誰だったか全く記憶に無い。
ネットで見ると安蔵先生は参考書も書かれていて、日本史教育界ではなかなか活躍されていたようだ。

https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B-%E8%A6%81%E7%B4%84%E6%95%B4%E7%90%86-%E5%AE%89%E8%94%B5%E5%BE%A9%E4%B9%9F/dp/4581220319

https://www.amazon.co.jp/%E9%AB%98%E6%A0%A1%E4%B8%80%E5%95%8F%E4%B8%80%E7%AD%94%E5%BC%8F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B%E3%81%AE%E6%80%A5%E6%89%80-%E5%AE%89%E8%94%B5%E5%BE%A9%E4%B9%9F/dp/4829055057

四谷二中のこと③先生の思い出A

http://nobinyanmikeko.hatenadiary.jp/entry/2019/07/31/150019

記憶に残る先生のこと

★神蔵為治先生

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神蔵為治先生は私が四谷二中に入学した時の校長先生。入学の一年後に定年退職されたので、神蔵先生の教えを受けたのは一年だけだった。

温厚で気さくな先生で、いつも着古したようなテカテカ光る背広を着ていたが、生徒からも教師からも信望厚かった。
若い時に講談師になりたくて弟子入りした事もあるとかで、話術が巧みだったので、普通は退屈である筈の校長先生の訓話を生徒は楽しみにしていたくらいだった。

先生が退職されて半年後くらいに、物理の加部先生が授業の中で新校長をボロクソに言われていた。授業で使う実験用具を購入したものの置き場所がないので「校長室に一時置かせて欲しい」と言ったら断られたとかで、「前の校長だったら二つ返事でOKしてくたのに」とぼやかれていた。

1964年の5月頃だったろうか、新聞の黒枠記事で神蔵先生が亡くなったこと、四谷二中退職後佼成学園の校長として迎えられていたことを知りました。
先生は朝礼の訓話マルティン・ルターの話をよくされていたので、佼成学園に迎えられていたというのはちょっと意外でした。

先生がよく話されていたルターの話で、ルターが晩年手を洗いながら「洗えば洗うほど汚くなる」とつぶやいていたという話は強く印象に残っています。それは自らの人生を振り返っての悔恨の言葉であるとされ、ルターほどの人物にしてなおそうであったのか、まして私たち凡人は悔むような事の連続、人生とはそういうものと私は受け止めました。

また、第二次大戦の敗戦を知った時、先生は流れのままに流されて結果として戦争協力者になってしまった自らの過去を悔い、これからは自ら納得しないことは決してすまいと心に誓ったと述べられ、不和雷同を戒め、自ら信ずることは百万人と雖も我行かんの強い思いで貫くことを求めておられました。

★加部恒一先生

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加部恒一先生は物理の先生。物理の先生なので教わったのは2年の時だけだったけど、ちょっと変わり者の先生だった。
授業を受ける前、加部先生は恐い先生だと聞いていた。確かに最初の授業の時は怒鳴りまくられていたので噂通りだなと思ったものの、その後は加部先生に怒鳴られた記憶は無く、結局最初に厳しい先生という印象を与えておけば以後は生徒は静かにしているので授業がやりやすいという教育上のテクニックだったのだと思う。
加部先生で印象に残っているのは趣味が教科書や参考書のミスを見つけて出版社にクレームをつける事だったこと。
まあそれによって菓子折くらいは貰えるかも知れないが、先生の場合はそれが目的なのではなくて、教科書や参考書のミスを、それがミスであると判断するためには自分がそれだけ勉強して最新の知識を身につけていなければならないわけで、いわば自分の知識の点検作業だったのだと思う。
先生は既に都立高校教員の採用試験に合格していたが、四谷二中を離れたくないから敢えて都立高校には行かないのだとか聞いていた。
ネットで見ると2000年の三鷹市の電話帳に加部先生の名があるようなので、少なくとも2000年の時点ではまだ存命で居られたようだ。

★小川守親先生

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小川守親先生は保健体育の先生で、2年(A組)の時の担任の先生でもあった。

熊本出身とのことだったけど、まるで江戸っ子のようなべらんめえ口調で話す、教師としては異色の存在だった。

小川先生で強烈に印象に残っている事件があった。

3学期の初め頃だったろうか、昼休み中に同級のY子がC組の担任で歴史の教師だったK氏から暴言を浴びせられて泣きながら自宅に帰ってしまうという事があった。

この時、小川先生は直ちに午後の授業を中止し、緊急ホームルームに切り換えた。
ホームルームの頭で昼休みにあった事を話し、今私たちがY子に対して何をすれば良いと思うか、二校時みっちり話しあって欲しいと言われた。

最初にY子と親しい子が、Y子は髪をセシールカットにしていたので不良少女のように思われていたけれど、本当はむしろ気の弱い優しい子なのだと話したことで、皆がY子への見方を変えた。
Y子を非難するような声は全く出ず、皆がY子にこれからどう接して行けば良いかを真剣に話し合った。休み時間も返上して二校時いっぱい話し合った上、小川先生と学級委員二人がY子の家を訪れて話し合いの結果を伝えた。

結局、翌日からY子は今まで通り登校して、前より明るくなったような気がした。

あの時、Y子があのまま不登校(当時の言い方では長欠)になってもおかしくない状況だったのを小川先生の一断で救ったのだと私は思う。

とにかく生徒思いの先生だった。

ネットで見ると2000年の南大泉の電話帳に小川先生の名前があるので、少なくとも2000年にはまだ存命で居られたようだ。

【追記】
小川先生も偉かったけれど、先生の思いを正面から受け止めた同級生たちも立派だったと思う。

★三上滋先生

三上先生は一年・二年の時の国語の先生。
三年になる時に、都立高校教員採用試験に受かったからということで四谷二中を去って都立五日市高校に行かれたようだ。
教師としては口数が少く、いつも物静かに話される地味な先生だった。
三上先生で印象に残っているのは文法を教わった時に、形容動詞について、形容動詞を認めない考え方もあるとして時枝文法の考え方を教わったこと。その時はなるほどいろんな考え方ができるんだなと感心した程度だったけど、今、高校の教師が「(学校文法と異なる記述のある)岩波古語辞典は買ってはいけない」などと生徒や親に言っているという話を聞くと、中学生に学校文法が唯一の文法ではないと教えた三上先生の凄さを感じる。今はもうそういう先生は居ないんだろうね。
残念ながら三上先生らしき人の名をネットで見つけることはできなかった。
世代としては加部先生・小川先生・三上先生とも当時40代くらいだったろうか。

★中村恵美子先生

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中村恵美子先生も国語の先生。
ただ私の場合は一年・二年は三上先生、三年は久保田先生に教わったので、中村先生の授業を受けたのは三上先生・久保田先生が体調不良だったり都合があったりで授業に出られなかった時だけだったから数回程度だったろうか。ただそこそこ若くて明るい先生だったから生徒に人気はあった。
その中村先生が突然四谷二中を去られたのは私が三年の秋だった。エジプトにアラビア語を学ぶ留学生として行きたいという申請が認められて政府派遣の留学生として行くことになったという話だった。
羽田空港まで中村先生の見送りに行ったのを覚えている。別に私は中村先生の教え子ではなかったのに見送りに行ったのは誰かに誘われたのだろうか。空港まで誰かを見送りに行ったというのは私の人生であの時一回だけだ。
残念ながら、その後の中村先生の消息はわからない。昭和62年の同窓会名簿の旧職員のところにも名前は載っていない。

http://nobinyanmikeko.hatenadiary.jp/entry/2019/08/04/234553

四谷二中のこと②

http://nobinyanmikeko.hatenadiary.jp/entry/2019/07/31/141336

今手許に昭和62年に四谷二中同窓会が創立40周年記念として制作した同窓会員名簿があって、これには二つの校歌が載っている。

つまり私の記憶にある旧校舎時代の校歌と移転後に改められた新校舎時代の校歌だ。

その双方を転載する。

――――――――――――――――――――――――――――

【旧校歌】

作詞:大貫金吾
作曲:岡本敏明

㈠ ゆかりの苑につらなりて
  緑いやます静思苑
  わが学び舎よ四谷二中
  平和の光みなぎりて
  今日輝かな朝は明く

㈡ 都のどよみよそにして
  オゾンに澄める杉樹立
  わが学び舎よ四谷二中
  清新の気はみちみちて
  今日も希望の窓ひらく

㈢ 森の小鳥よわが友よ
  共にうたわんうまし歌
  わが学び舎よ四谷二中
  自由の心のびのびと
  今日も理想の鐘がなる

――――――――――――――――――――――――――――

【新校歌】

作詞:藪田義雄
作曲:柿本吾郎

㈠ みどりゆたかな静思苑
  その思い出をあたためて
  明日にかけるわが願い
  大地に足を踏みしめて
  四谷二中の若人われら

㈡ 創意創進めざしつつ
  この手に築く大理想
  ゆくての道は遠くても
  つらぬく誠ひとすじに
  四谷二中の若人われら

㈢ ビルの町並西に見て
  日はさしのぼるかがやかに
  希望を胸に起つところ
  歌ごえ高くこだまする
  四谷二中の若人われら

――――――――――――――――――――――――――――

静思苑は旧校舎の敷地の一隅にあったヒマラヤ杉の林で、敷地が狭いので新宿御苑から借りている所だから大切にして欲しいと言われていた。
当然移転の際には新宿御苑に返還されたものと思っていたのに新校歌にも静思苑が出て来るので「あれ?」と思った。その経緯などはわからない。

【追記】
「みどりゆたかな静思苑その思い出をあたためて」というのだから旧校舎の静思苑の思い出を歌っているだけで、新校舎に静思苑が移植されたとかいうことでは無さそうだね。
同窓会名簿には「S51.4.20静思苑の桜・椿を新校舎用地に移植」とあるけど、静思苑に桜や椿なんてあったかな?

http://nobinyanmikeko.hatenadiary.jp/entry/2019/08/02/172451