つらつら思うこと

特にテーマは決めずに書きます

『月やあらぬ』の歌の恋の相手は染殿の后か

伊勢物語第4段の昔男の恋の相手は一般には二条の后藤原高子とされているがいろいろ疑問点もある。

第6段の終りに「白玉か……」の歌に続けて

これは二条のきさきのいとこの女御の御もとにつかうまつるやうにてゐたまへりけるをかたちのいとめでたくおはしければぬすみておひていでたりけるを御せうとほりかはのおとゞたらうくにつねの大納言まだ下らうにて内へまいりたまふにいみじうなく人あるをきゝつけてとゞめてとりかへしたまうてけり。それをかくおにとはいふなりけり。まだいとわかうてきさきのたゞにおはしける時とや。

とあることなどが相手は二条の后高子とする根拠になっているようだが、実践女子大学蔵異本伊勢物語のように「白玉か……」の歌で終っている本もあり、「これは二条のきさきの」以下は後人による六段の解釈と考えるべきであって、それをそのまま歴史的事実と考える必要はない。

伊勢物語106段の「ちはやぶる神世もきかず……」の歌は古今集では

二条后の春宮の御息所と申しける時に御屏風に龍田川に紅葉流れたるかたを書けリけるを題にてよめる

という詞書がついていて、二条の后高子が春宮(貞明親王)の御息所であった時期、つまり貞明親王立太子の869年から貞明親王陽成天皇として即位した876年の間にこの歌が屏風絵に添える歌として詠まれたことがわかる。
これは片桐洋一氏によれば二条の后の部屋が当時の宮廷の文芸サロンになっており、業平は二条の后のお気に入りの歌人の一人として出入りしていたとされる。
もし6段の終りに書かれたことが事実であるなら何故業平が二条の后の部屋に出入りできたのか不可解と言わねばならない。
また業平は基経の四十の賀に呼ばれて歌を詠んでいるし、業平の孫娘は国経の妻になっていて、業平と摂関家は決して敵対的ではない。

一方塗籠本では第3段の終りに

五條后のいまだ御門にもつかうまつらでただ人にておはしける時のことなり。

とあり、これだと相手は五條の后順子ということになるのだが、順子は809年生まれだから業平より16歳も年上で考えにくい。同様に高子も業平より17歳も年下でこれも考えにくい。

「完訳日本の古典・伊勢物語」の福井貞助氏による系図を見ると、業平の子滋春の母親が染殿内侍となっている。これは冷泉家流古注によったようだが、染殿内侍は藤原良相の娘とされているものの良相の娘に該当するような女性はいない。

一方相手を染殿后明子と考えたらどうだろうか。明子が入内したのは道康親王の春宮時代とされているが正確な年次は明らかにされていない。
仁明天皇の皇太子は当初は恒貞親王だったが842年の承和の変恒貞親王廃太子となり、道康親王が皇太子に立てられた。この時道康親王は数え16歳、即位した850年には数え24歳。
即位直後に惟仁親王が生まれているから849年までには明子は入内していたのだろう。ただ明子入内の前に道康親王には既に藤原列子、紀静子という少なくとも二人の妻がいて文徳天皇即位とともに列子の子の晏子内親王が伊勢斎宮に慧子内親王が賀茂斎院に卜定されている。
明子の入内は842〜849年の間ということになるが、842年には明子はまだ数え14歳だし、844年に惟喬親王が生まれた時点ではまだ入内していなかったと思われるから849年に近いのだろう。
この入内待機中に業平が明子のもとに通っていたと考えたらどうだろう。たとえば847年なら業平は数え23歳、明子は数え19歳。明子は大変な美人だったと言われているし、年齢的にも不自然ではないし、道康親王には既に二人の妻がいて紀静子を寵愛していることを知っている明子には気の進まない思いもあっただろう。

そう考えた場合、後の明子の精神錯乱も説明しやすい。そして文徳天皇が惟仁親王廃太子にして惟喬親王を皇太子にしようとしたのは惟仁親王は実は業平の子ではないかという疑心暗鬼があったのではないか。
業平の官位の昇進が文徳天皇の8年間はストップしていて清和天皇になるとにわかに昇進し始めたのも清和天皇が業平の子であるならわかりやすい。
摂関家にとっては明子の産んだ子を天皇に据えれば良いわけで、その点業平と摂関家は利害を共有していたと言える。業平は決して不遇の貴公子などではなかったと思う。