つらつら思うこと

特にテーマは決めずに書きます

伊勢物語69段の狩の使の話はどこまで事実か。

片桐洋一氏は「鑑賞日本古典文学・伊勢物語」等で清和天皇の時代に狩の使が派遣された記録が無く、また清和天皇は鷹狩りも行わなかったほどに殺生を嫌う性格だったから69段に書かれたことはフィクションであり、業平自身が唐の元稹の「會眞記(鶯々傳)」をモチーフとして創作したものだとの見解を述べ、内田美由紀氏などもこの見解を支持しているようだ。(もしそうであるなら三代実録の「略無才學」という評価に反して業平は漢学の素養があったということになる)

一方で奈良の不退寺に伝わる伝承では業平が伊勢神宮に参詣した時に平城天皇の霊を鎮めるために平城天皇旧居の跡地に寺を建立せよとの神託を承けて建立したのが不退寺であるとされており、伊勢神宮参詣自体は事実ではないかとの見方もある。

田中久三氏はこれは清和天皇の時代ではなく文徳天皇の時代であり、伊勢斎宮晏子内親王、男は在原棟梁としているが、年齢から言って棟梁は考えにくいだろう。晏子内親王清和天皇即位とともに退下して恬子内親王と交替しているが、これが858年なので業平は数え34歳。紀有常は数え44歳だから業平の妻になった有常の娘はまだ20歳前後だろう。となると有常の娘の子である棟梁は既に生まれていたとしてもまだ子供だから。また晏子内親王文徳天皇の死によって退下したもので何らかのトラブルがあった形跡はない。

ところが晏子内親王の妹で賀茂斎院を務めた慧子内親王は不審な辞め方をしている。857年に理由が明らかにされることなく過ちがあったとして退下させられている。

http://kamosaiin.net/aoi04.html

慧子内親王が844年生まれとすれば賀茂斎院に卜定された850年には数え7歳、退下させられた857年には数え14歳ということになる。
理由が明らかにされていないだけにいろいろな憶測がされたであろうことは想像に難くない。

私は伊勢物語69段は賀茂斎院慧子内親王の退下事件をモチーフにして伊勢斎宮に置換えた創作だったのではないかと考える。