つらつら思うこと

特にテーマは決めずに書きます

古語辞典比較〜「涅」と「黒し」

岩波古語辞典(大野晋佐竹昭広・前田金五郎編、岩波書店)の初版(1974年12月)と補訂版(1990年2月)とで記述に違いがあるのに気づいたのは、『涅』と『黒し』の項目だった。


❂初版

くり【涅】《クロ(黒)と同根》
水中の黒い土。染料とする。「金の━━に黒まず、蓮の水に染まぬ如くなり」〈沙石集ニノ四〉。「涅、唐韻云、水中黒土也……久利」〈和名抄〉

くろ・し【黒し】〘形ク〙
①色が黒い。「ぬばたまの━━・き御衣(みけし)を」〈記歌謡四〉。「若かりし膚も皺みぬ━━・かりし髪も白けぬ」〈万1740〉
②不正である。「きのふけふ入学して━━・しあかしの悟りなきが」〈宇津保 祭使〉
③きたない。卑怯である。「孫次郎は━━・きふるまひかな」〈蒲生軍記六〉▷アクセントを考慮すると、クリ(涅)と同根で、クラ(暗)・クレ(暮)とは語源的に別か。✟ kurosi


❂補訂版

くり【涅】
水中の黒い土。染料とする。「金の━━に黒まず、蓮の水に染まぬ如くなり」〈沙石集ニノ四〉。「涅、唐韻云、水中黒土也……久利」〈和名抄〉

くろ・し【黒し】〘形ク〙
①色が黒い。「ぬばたまの━━・き御衣(みけし)を」〈記歌謡四〉。「若かりし膚も皺みぬ━━・かりし髪も白けぬ」〈万1740〉
②不正である。「きのふけふ入学して━━・しあかしの悟りなきが」〈宇津保 祭使〉
③きたない。卑怯である。「孫次郎は━━・きふるまひかな」〈蒲生軍記六〉✟ kurosi


初版の『涅』の項にあった「《クロ(黒)と同根》」と、『黒し』の項にあった「▷アクセントを考慮すると、クリ(涅)と同根で、クラ(暗)・クレ(暮)とは語源的に別か。」の部分が削除されている。
ただ削除されてはいるのだが、「クラ(暗)・クレ(暮)と同語源」と記しているわけでも無いので、完全に通説に乗換えたということではなくて「涅語源説」は保留しておくことにしたということなのだろう。



他の古語辞典での記述は以下の通り。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

❂明解古語辞典/改訂版(金田一春彦編修主任、1953年4月、三省堂

くり【涅】(名)水の中にある黒い土。黒色の染料として用いる。
「金の(=ガ)━━に黒まず、蓮の水に染まぬごとくなり」〔沙石集〕

《「黒し」の項目無し》

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

❂基本古語辞典(小西甚一編、1966年3月編、大修館書店)

《「涅」の項目無し》

《「黒し」の項目無し》

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

❂時代別国語大辞典上代編(上代語辞典編修委員会編、1967年12月、三省堂

くり[涅](名)水中の黒土。黒色。クリソメの語があるのは、染料として用いられたものか。「皀(くり)ソメノ御衣三具」(天武紀朱鳥元年)
「黓 久利、烏色也」(新撰字鏡)「涅 久理、水中黒土也」(和名抄)

くろし[黒]〈※ロは甲類〉(形ク)
黒い。暗シと語根を等しくし、それが明るさに対するくらさを表わすのに対して、これは色をいう。「ぬばたまの久路岐御衣をま具(ツブ)さに取り装(ヨソ)ひ」(記神代)
「蜷(ミナ)の腸(ワタ)か具漏伎髪にいつの間か霜の零りけむ」(万804)
「若かりしはだも皺みぬ黒有(くろかり)し髪も白けぬ」(万1740)
「駒造る土師の志婢(シビ)麻呂白くあればうべ欲しからむその黒(くろき)色を」(万3845)
天皇勅、追₂聚於此村₁、悉皆斬死、故曰₂臭江₁ト、其血黒(くろく)流、故号₂黒川₁」(播磨風土記賀毛郡)
「有₂黒田村₁、土体色黒(くろし)、故云₂黒田₁」(出雲風土記意宇郡)
「其ノ色ハ玄(くろく)紺ナリ」(石山寺法華経玄賛淳祐古点)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
❂新訂/詳解古語辞典(佐藤定義編、1972年11月、明治書院

《「涅」の項目無し》

くろ・し【黒し】(形ク)
①黒い色をしている。
「名残なう━━・きうちき重ねて」〈源・末摘花〉
②(濃紫・褐色・鈍色など)黒に近い色をしている。
「常よりも━━・き御よそひにやつし給へる御かたち」〈源・薄雲〉
⦿「黒き衣(きぬ)」は喪服の意に用いる。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

❂新明解古語辞典/第二版(金田一春彦編者代表、1972年12月、三省堂

くり【涅】(名)水の中によどんだ黒い土。黒色の染料として用いる。
「金の(=ガ)━━に黒まず、蓮の水に染まぬごとくなり」〔沙石2〕

《「黒し」の項目無し》

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

❂例解古語辞典/第二版(佐伯梅友・森野宗明・小松英雄編、1980年1月、三省堂

《「涅」の項目無し》

くろ・し【黒し】(形ク)
❶黒の色である。(色が)黒い。
❷腹黒い。不正である。
[用例]
❶(a)「梶原(=人名)が賜はったるするすみ(=馬ノ名)も、(中略)まことに━━・かりければ、摺る墨と付けられたり」〔平家九・宇治川先陣〕
 (b)「病深きと見えて、面は黄に、肌は━━・く痩せ」〔雨月・菊花の約〕

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

❂全訳古語例解辞典/第三版(北原保雄編、1987年1月、小学館

《「涅」の項目無し》

くろ・し【黒し】〔形ク〕
❶色が黒い。
❷正しくない。悪い。
[例]昨日今日入学して、━━・し赤しの悟りなきが」〈宇津保・祭の使〉
[訳]つい最近大学寮に入学して、まだ悪い良いの判断も十分にはできないけれど。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

三省堂セレクト古語辞典(桑原博洋編、1987年12月、三省堂

《「涅」の項目無し》

くろ・し【黒し】(形ク)
❶黒い
[用例]「黒きものを引き散らしたるやうに」〈枕〉
[訳]黒いものを散らしたように。
❷不正である
[用例]「昨日今日入学して、くろしあかしの悟りなきが」〈宇津保〉
[訳]昨日今日入学して、正・不正もわからない者が。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

❂角川必携古語辞典(山田俊雄・吉川泰雄編、1988年11月、角川書店

《「涅」の項目無し》

くろ・し【黒し】形ク
❶黒い。「ぬばたまの━━・き御衣(みけし)を」〔記謡・四〕「色━━・う憎げなる女の」〔枕・105〕(※古典大系109段「見ぐるしきもの」)
❷心が正しくない。腹黒い。「━━・しあかしの悟りなきが」〔宇津保・祭の使〕

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

❂旺文社全訳古語辞典/第三版(宮腰賢・桜井満・石井正己・小田勝編、1990年11月、旺文社)

《「涅」の項目無し》

くろ・し【黒し】(形ク)
❶色が黒い。
[万葉九・1744](※古典大系では1740)
「━━・かりし髪も白けぬ」
[訳]黒かった髪も白くなった。
❷悪い。正しくない。
〔宇津保〕祭の使『昨日今日入学して、━━・し赤しの悟りなきが」
[訳]昨日今日(勧学院に)入学して、(まだ)悪いよいの分別もつかない者が。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

❂全訳用例古語辞典ビジュアル版(金田一春彦監修、菅野雅雄・中村幸弘編、1996年12月、学研)

《「涅」の項目無し》

《「黒し」の項目無し》

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

❂古語林(林巨樹・安藤千鶴子編、1997年11月、大修館書店)

くり【涅】〘名〙水底の黒土。黒色の染料に用いる。また、その色。
[例]金(こがね)の涅に黒まず、蓮(はちす)の水に染まぬがごとくなり〈沙石・二〉

くろ・し【黒し】〘形ク〙
❶色が黒い。また、黒っぽく暗い。
[例]くろかりし髪も白けぬ〈万・九〉
❷正しくない。
[例]きのふけふ入学してくろしあかしの悟りなきが〈宇津保・祭の使〉

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

❂ベネッセ全訳コンパクト古語辞典(中村幸弘編、1999年11月、ベネッセコーポレーション

《「涅」の項目無し》

くろ・し【黒し】[形容詞][ク]
❶黒い。黒い色をしている。
❷公正でない。汚れている。汚い。卑怯だ。 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

三省堂詳説古語辞典(秋山虔渡辺実編、2000年1月、三省堂

くり【涅】[名]水の底によどんでいる黒い土。染料に使う。また、その色。

くろ・し【黒し】[形ク]
❶色が黒い。
❷公明でない。悪い。
[例]「昨日今日〔大学ニ〕入学して、黒・し赤しの悟りなきが」〈宇津保・祭の使〉

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

❂東書最新全訳古語辞典(三角洋一・小町谷照彦編、2006年1月、東京書籍)

《「涅」の項目無し》

くろ・し【黒し】[形][ク]
❶色が黒い。
[例]「くろくきたなき身を肩抜ぎて」〈徒然・175〉
[訳]「(年を取った法師が酔って)色が黒くて汚い体を(上半身だけ)服を脱いで(肌を見せて)」
❷正しくない。悪い。
[例]「昨日今日入学して、くろし赤しの悟りなきが」〈宇津保・祭の使〉
[訳]「きのうきょう(勧学院に)入学して、正しくないと正しい(=善悪)の区別もできない者が」

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

なお、クリ(涅)とクロ(黒)を同源とする仮説は有坂秀世の「母音交替の法則について」(1934年9月、「音聲學協會會報」第三十四號収載)において既に述べられており、大野晋氏の創見という訳では無い。

アクセントについては「類聚名義抄四種声点付和訓集成」(望月郁子編、1974年3月、笠間書院)で見ると下記の通りだった。

久利……涅[平上]図書寮本
クリ……涅[平平]鎮国守国神社本
久利都知……涅[平平平平]図書寮本
クリツチ……涅[平平平平]鎮国守国神社本
クリニス……泥[平上上上]鎮国守国神社本
クロシ……黒[平平]観智院本
クロシ……黔[平平]観智院本
クロシ……黎[平]観智院本
クロツチ……壚[平平平平]観智院本
クラシ……暗[上上]高山寺
クラシ……暗[上上]観智院本
クラシ……冥[上上]観智院本