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古語辞典比較~前書・後書(2)角川古語辞典/改訂版~角川全訳古語辞典

❄角川古語辞典/改訂版(編集:武田祐吉久松潜一・佐藤謙三・三木孝・橋本研一、1958年3月初版1963年1月改訂初版、角川書店

【改訂にあたって】
 古典は日本人の心のふるさとであり、古語はそのふるさとをたずねる道しるべである。敗戦後、その衝撃による虚脱と、相次いで行なわれた国語・国字の改革に伴う国語の混乱という事態から、古典に対する関心が、一般から失われ去ったかのようなひとときがあった。「角川古語辞典」が企画されたのは、まさにそのころのことである。その目的は、遠ざかりつつある心のふるさとを、できるだけ身近なところに引きもどすための古典読解の足場を築くことにあった。正確でわかりよい解説を目ざし、著名な古典から適切な用例をあげるよう努力したのはそのためである。なかでも有職故実をはじめ動植物その他について、本文や付録にさし絵を入れて、現代人の理解に遠いことがらを簡便に理解できるようにしたが、これはこの種の小型辞典としては画期的な試みであった。昭和三十三年初版刊行以来、世に好評をもって迎えられ、多くの版を重ねえたのは、これらの努力と創意にあずかること大きかったものと思う。
 それから四年、ここに改訂版を送り出す運びとなった。この間の国語、国文学界の発展とその成果はめざましいものがある。すぐれたテキスト・注釈書・索引の類が続々と刊行され、研究の面で従来不明におおわれていたものが多く明らかにされた。一方、辞典を一度編集して客観的に見ると、意外に必要な語彙や解説のもれていることを発見した。私どもは刊行以来、常に学界の動向をうかがい、辞典の内容を検討して、着々と改訂の準備を押し進めてきた。この改訂版で、従来このような小型辞典では不可能とされた四万一千語の収録に成功し、その全体にわたり適切な解釈を加ええたことを喜びとする。他に内容の面で俳諧季語に留意してみた。季語が古くより日本人の美意識を代表して、文芸に独特の地位を占めてきたものである以上、辞典としておろそかにしえないのは当然のことである。
 旧版「古語辞典」の刊行の直後、武田祐吉博士の突然の逝去に遭遇した。武田博士はこの辞典の改訂になみなみならぬ熱意を示されて、みずから朱筆を加えて完璧を期せられていたが、初版を送り出して大方の批判を聞かれることなく幽明境を異にされた。博士の遺労を尊重して改訂の事業に従ってきた編者にとって、改訂版の刊行は感無量である。博士の御霊前にその成功を報告し、冥福を祈るばかりである。
 改訂にあたり、旧版に寄せられた多くの人々の御助言に感謝し、今後ますます御指導をたまわり、いっそう完全な辞典とすることを期したい。
 また、この改訂事業には学界・教育界の多くの方々の御協力を得たが、特に編集から刊行まで、千勝重次・吉川泰雄・松井栄一・田中新一・杉崎一雄荻久保泰幸・室伏信助の諸君の終始変わらぬ援助あったことを付記し、感謝の意を表する。
昭和三十七年十一月
編者

❄角川新版古語辞典(久松潜一・佐藤謙三・山田俊雄・吉川泰雄・室伏信助・鷺只雄・秋葉直樹・小林祥次郎・岡崎正継編、1972年12月、角川書店

【編者のことば】
 わたくしどもが、「角川古語辞典」(初版)を刊行したのは、昭和三十三年一月のことであった。その後、昭和三十八年、その改訂版を公にして今日に至ったが、いま「角川古語辞典」の新版を世に送り出すにあたり、長い間、この辞典を支持し、愛用して下さった方々に心から感謝する次第である。
 さて、現在では、「古語辞典」は古典学習に欠かすことのできない伴侶である。辞典のよしあしが、古典理解の深浅にかかわるところが大きいとすれば、編者の側の責任は重大である。
 「新版角川古語辞典」の編集にあたり、特に留意したのは次のような点である。まず第一に解説の面で、いっそう正確な語義記述を目ざし、最新の研究成果を平易な用語で十分に盛り込むように心がけた。また、同時に用語例についても、より適切なものを紙面の許すかぎり、豊富にとり入れることに努力した。次に付録の面では、いっそう機能的なものを目ざし、古典読解の実際にはば広く適応できるものを数多く収録するよう心がけた。
 「新版角川古語辞典」が、古典と現代という時代の差をのりこえる道しるべとしての役割を果たすことができれば編者としてこの上ないよろこびである。
 最後に、この辞典の編集から刊行までには、数多くの人々の献身的な御協力をいただいた。初版以来改訂版まで、この新版の基礎固めに御尽力下さった方々に謝意を表すると同時に、新版編集の内部にあって執筆・校閲につとめられた人々を左に記して感謝の微意を表したい。
 さらにまた、改訂版までの編者であられた武田祐吉博士の御霊前にこのたびの壮挙を報告し、心から御冥福をお祈りする次第である。
昭和四十七年十一月
編者

■執筆編集協力者■
青木幹雄・浅原恒男・有川章子・飯島正裕・石井徳子・石坂昌圀・遠藤和夫・柏原司郎・川崎千鶴・貴志正造・北沢瑞史・小林吉一・小松淑子・小室善弘・佐々木巧一・佐々木久彦・須見明代・妹能孝昌・高橋六二・武市真弘・武田友宏・田尻嘉信・只腰宏子・靏岡昭夫・中島繁夫・中野猛・中村幸弘・西田絢子・藤木久志・藤本憲信・松島英明・松本寧至・村田代子・森田兼吉・山崎孝雄・湯沢質幸・吉沢中正・和気照子・渡辺政司
(五十音順 敬称略)



❄角川最新古語辞典/増補版(佐藤謙三・山田俊雄・室伏信助・小林祥次郎・青木幹雄・吉沢中正・藤本憲信・武田友宏編、1975年1月初版1980年1月増補版、角川書店

【編者のことば】
 ここに『最新古語辞典』を、あらたに世に送り出すにあたって、編者の側から一言述べて、この一冊の成り立ちを明らかにしておきます。
 日本語で書かれた文学はそれこそおびただしい数に上ります。それをすべて読み切ってしまうなどということは、生涯をかけても、なかなかできることではありません。教室で読み習う古文の時間にいくら熱心に身を入れてみても、中学三年間、高校三年間を合わせた年月のすべてを打ち込んで勉強しても、とても及ぶものではありません。しかし、その後の長い年月を含めて生涯の折々に、そして思い立った時々に、どんな場所ででも、もし楽に読むことができる力さえあったら、世の中に生きてゆく人間として、文学とのかかわりを保つことができてどんなに豊かな人生を過ごすことになるか、それはここであらためて言うまでもなかろうと思います。
 春の旅の宿で「万葉集」をひもといて古き大らかな抒情を味わう、時には秋の海辺で「徒然草」の人生への鋭い風刺をかえりみるというような風流を願う日が、今の若い人々の上にもやがてはきっと訪れるに違いありません。
 この辞典は、その日のための長いアプローチをととのえるものでありますが、さしあたっては、まだうらわかい人々が、過去の日本語でつくられた魅惑の世界を少しでも体験できるようにとの、ひそかな願いによって作られたものであります。
 日本人にとっての日本文学は、現代のも古代のも、いずれも同じ日本語という共通の記号によって作り出された作品であります。古い日本語は、現代の日本人のことばと同じ日本語であって、そこから不死鳥のようにたえず新しい生命を喚びもどして、日本の心が発展してゆくこよなき財産であります。古典がその生命を現代に保つのは、その古典を形づくる古いことばの生命の躍動を知る現代の心があるからにほかならないのです。
 文学は過去をふり返るよすがであると同時に、現代を生きてゆく尊い糧であります。また考える葦としての人間の、おのずから帰り着く家でもあります。もし、その文学が近づきがたいものになったら、おそらくその時人間はわびしさの極みに行き着いてしまうことでしょう。そこに帰るために必要なことといえば、それは現代のことば、古代のことばを問わず、自分のはぐくまれた社会のことばによく通じること、ただそれだけであります。
 この辞典は、むかしいまのことばの不思議なからくりを身につけてゆくための第一歩を若い人々に示して長く助言を続けようという、ひかえめな望みによって作られたものなのです。
 こうしてことばのあやなす文学の世界は、すぐ隣にまた広い別の世界をも持っています。日本人の精神のすぐれた営みがどんなものであったか、日本人の生活の実況はどんなものであったか、その他さまざまの歴史の世界が、文学の世界を大きく包みながら展開してきているということに、思いをいたしてほしいと思います。歴史を知るにも、古いことばを通してこそ確実なことがわかるということを。文字という痕跡を借りて、躍動する証言者として古いことばを十分に働かせてみるとき、初めて過去の日本の姿が明らかになってゆくということを。
 古典は古文・古語という、美しく犯しがたい装いにつつまれて、静かに人々の前に立ちつくしています。そのために近づきがたいと思わせるものがあります。しかし、その美しいたたずまいを支えていることばの成り立ちに、また犯しがたい装いのうちにこめられた精神に、じかにせまることができたら、その冷ややかにさえ見える端正な姿にもかかわらず、古典は一転して、きわめて身近にその魅力のすべてをあらわにすることになります。
 この辞典は、みずから求めて古典をわがものとし、心の豊かさを身につけようとする人々のために、古文・古語のいかめしさを少しでもやわらげることができるように、さまざまの工夫をこらしてあります。
 若い人々が読む著名な作品のすべてについて、必ず助言を与えようと準備してあります。文法にかかわること、また紛れやすい語の識別にかかわること、どれから先に身につけてゆくべきかということなどに気を配ってあるばかりではありません。用例について現代語訳の一例を添えてみるところまで手を尽くしてみました。
 ことばは、情報を運ぶものの中で、やはりもっともすぐれたものというべきですが、編者は古文・古語についての重要な情報を、必要にして十分なだけ若い人々に届けることができたと思っています。それは古語と同じ日本語である現代語によって。この辞典では、すべて現代のわかりやすいことばによって解決が与えられます。そして、ことばを知る人が、日本をよく知ることになるのであります。
昭和四十九年十月三十一日
佐藤謙三
山田俊雄

 なお、次に編者とともに編集の中心となって協同された人々の名と分担区分とを掲げます。また、さらに後に列挙した方々から多くの援助を得たことを記しまして、深い感謝の意を表すものであります。
 原稿校閲・基本語執筆=室伏信助 基本語・固有名詞執筆=小林祥次郎 助詞、助動詞執筆・敬語校閲青木幹雄 敬語執筆・助詞、助動詞校閲=吉沢中正 原稿校閲・基本語執筆=武田友宏 基本語・一般語執筆=藤本憲信
〔編集協力者〕(五十音順・敬称略)
赤坂映治・有川章子・犬飼隆・大畑とき子・岡崎和夫・岡嵩・川手真実・木村はるか・久保昭雄・小松淑子・竹内頼夫・谷脇理史・靏岡昭夫・西田絢子・野沢勝夫・村尾元忠・百瀬渡・森田兼吉・山崎孝雄・山本昌弘・湯沢質幸・吉原英夫・渡辺政司



❄角川必携古語辞典(山田俊雄・吉川泰雄・室伏信助・小林祥次郎・吉澤中正・武田友宏編、1988年11月、角川書店

【編集にあたって】
⦿ことばには二面の働きがあります。一つには、自分でそれを使って語り、書き、述べるという、伝達と創造とを主にする働きです。もう一つは、他の人が語り、書き、述べたことを、理解し継承することを主にする働きです。
⦿また、ことばは、人間の思うこと、考えることと密接な関係があって、順を追ってはっきり考えることが、ことばを整えることになり、逆に、ことばを精確に読み、使うことによって考えが明快になるものです。
⦿古文を学び、古語に親しむという、若い人々の勉強は、正しく右に述べたような、理解と継承とに、もっぱら努めることであります。人間の思想や感情は、科学のもたらす大きな進歩や革新とともに微妙に変化してゆくものですが、変化しない、恒常的な部分も多くあります。古文を正しく読解したとき、この変わらぬ思考や感情を見出すことが多くあります。
⦿つまり、兼好が言っているように、「見ぬ世の人を友とする」ことの喜び、共感共鳴できるものに出合う楽しさが至る所に生まれてきます。人生の糧としての金言や名言を拾うことができるばかりでなく、物語や詩歌の中に展開するドラマを共有し、感じ、考えることは、古文を学ぶ楽しみの大きなものです。また、古語の一つ一つがその中にもっている雰囲気を味わうことは、現代の日本語を再生する力ともなります。

⦿この辞典は、初めて本格的に古文を学ぼうとする人たちを対象に編集したものです。したがって、基本語・基本事項を中心にしましたが、それぞれについて、深く掘り下げるとともに、広く関連領域に目配りしてありますので、既習者にとっては知識を整理する上で、よきアドバイザーとなるはずです。わたくしどもが、編集にあたって最も心をくだいたことは、どうすれば、読者が自分自身で知識に命を吹きこむことができるような辞典をつくれるか、ということです。そのために、時代の感覚や読者の環境などを充分に顧慮しました。
⦿第一に、視覚を重視しました。現在、われわれの情報の八〇%以上が、視覚によって獲得されると言われています。そこで、ハンディ版の辞典としては他に類を見ないほど、カラー口絵・カラーページを増加しました。特に、本書独自の試みとして、古典文学という建物の構造が一目でとらえることができるように、絵巻を用いて物語・説話……の部屋を設けました。なお、本文も、必要事項を探しやすいように二色刷りにしてあります。
⦿第二に、コラム欄を大幅に増やしました。ことばに関するもの、文法に関するもの、作品の背景に関するもの、の三種に分け、あいまいでわからない点、入りくんでわからない点、ぜひ知りたい事柄などを、やさしく丁寧に解説しました。ここには、一目でわかる表覧や楽しい読み物ふうの記事を盛り込んであります。
⦿第三に、重要語は、精細でしかも明確な解説を施しました。用例は重要古典から採り、例文からその場面を心に描くことができるように、平易明快な訳文を付けました。
⦿第四に、人名・書名などの固有名詞や文芸用語・文法用語などを、本文中に見出し語として立てました。漢字表記にしましたので、検索しやすくなっています。
⦿第五に、付録は実用性に富んだものにしました。単なる付録ではなく、独立して活用できるように、本文に匹敵する内容を備えています。

⦿これまで述べてきたように、本書は、辞典というよりもむしろ古典小百科にふさわしい内容をもっています。どのページをめくっても、古典の世界に誘う魅力の香が漂うよう、丹精をこめて編集しました。読者の皆さんから、幾久しく、古典をひもとく伴侶として、愛されることを祈念してやみません。
⦿最後に、この辞典の執筆・校閲にご尽力をいただいた左記の方々に、心から感謝の意を表します。

植田恭代・大軒史子・木越秀子・小池清治・坂本修一・佐竹久仁子・鈴木重寿・鈴木泰則・保坂博子・松下則之・渡辺政司
口絵監修=高田倭男 口絵=須貝稔 〈敬称略〉
一九八八年九月
編者



❄角川全訳古語辞典(編者:久保田淳・室伏信助、編集委員沖森卓也鉄野昌弘・保坂博子・室城秀之、2002年10月初版、角川書店

【この辞典のねらい】
 この辞典は高等学校の古文学習に役立つように、無駄な言葉を省き、必要なことは懇切に説明するということを常に念頭において編纂されました。
 古典は受験や成績のために勉強するものではありません。難しそうな古文の後ろにある、我々の文化遺産の宝庫を楽しみ、次の世代へ文化を継承するという役割をもった科目です。しかし、実際問題としては、まず目の前にある古文を読みこなすことができなければ楽しめるわけもありません。
 実際の授業、教科書に採られた教材、大学入試へ出題される古典作品は、そう多岐にわたるものではありません。平安朝の古典を中心にした、各時代・各ジャンルの「主要出典」の占める割合が著しく高く、また、これらの古典を勉強することで、自然にほかの古典も読めるようになってくるものです。
 特殊な言葉が入学試験に出題される場合には、必ず、その語に注がついているように、特殊なことは必ずしも覚える必要はありません。大切なことを確実に押さえておくことこそ、高校生の勉強にとって重要なことです。
 いたずらに語数の多い辞典を使って神経を擦り減らすよりも、必要なことばかりを要点を絞って親切に解説した辞典で勉強するほうが効率よく勉強できるでしょう。
 この辞典は、「引いたことで得をする」ということを目指しています。宿題だから、予習が必要だから、しかたなく引く辞典ではありません。
 この辞典を引いたことで、教科書の古典に書かれた文章がいきいきと立ちあがり、「やはり引いて良かった」という思いを皆さんにもってもらえるならば、こんなに嬉しいことはありません。

【古典の面白さ━━散文から━━】 室伏信助
 『竹取物語』の中で、かぐや姫は、八月十五夜、いよいよ地上の恩愛を断って月世界に昇天するとき、帝に手紙を書き置く。かぐや姫は帝の求婚を退けて月世界へ戻っていくのである(原文・訳は拙著、角川ソフィア文庫『新版竹取物語』による)。

 かくあまたの人を賜ひて留めさせ給へど、許さぬ迎へまうで来て、取り率てまかりぬれば、口惜しく悲しきこと。①宮仕へ仕うまつらずなりぬるも、②かくわづらはしき身に侍れば、心得ず思しめされつらめども、④心強く承らずなりにしこと。なめげなる者に思しめし留められぬるなむ、心にとまり侍りぬる。
(このように大勢の人をお遣わしくださって、わたしを引き留めなさいますけれど、とどまることを許さない迎えがやってまいりまして、わたしを捕えて連れて行ってしまいますので、残念で悲しいことでございます。①宮仕えをいたさぬままになってしまったのも、②このように厄介な身でございますので、③納得できないとお思いあそばされたでしょうけれども、④強情に仰せに従わずじまいになってしまったのです。無礼な者だとお心にとどめあそばされたことが、とても心残りでございます。)

 右の文中、「宮仕へ……」から「……なりし〈ママ〉こと」まで、句読点の打ち方が主な注釈書をみるとまちまちである。「①、②。③、④。」(岩波書店日本古典文学大系)「①、②。③。④、」(小学館・日本古典文学全集)「①、②。③、④心強く、承らずなりにしこと。」(新潮日本古典集成)、「①、②、③、④。」(角川ソフィア文庫)と四通りあり、内容の理解にも微妙な差異が生じる。試みに前記の文庫の訳文を使えば、

「①宮仕えをいたさぬままになってしまったのも、②このように厄介な身だからでございます。③納得できないとお思いあそばされたでしょうけれども、④強情に仰せに従わずじまいになってしまったのです。」

「①宮仕えをいたさぬままになってしまったのも、②このように厄介な身だからでございます。③納得できないとお思いあそばされたでしょう。④強情に仰せに従わずじまいになってしまいました。」

「①宮仕えをいたさぬままになってしまったのも、②このように厄介な身だからでございます。③納得できないとお思いあそばされたでしょうけれども、④強情で、仰せに従わずじまいになってしまいました。」

のように理解されていることになる。

 古典にはもともとは句読点がついていないのであるから、倒叙や挿入句を交錯させた表現をどう見るかについては、各自で考えてみる楽しみがある。
 この手紙の文面は、ことさら、取り乱したふうには見えないが、文脈が不思議に乱れて、この世で受けたさまざまな恩愛を断ち切って月世界へ帰る折の心の乱れが、途切れ途切れの文章を放置して一文脈に取り押さえられない動態として描かれている。と見ることもできる。『竹取物語』には解釈を含めた表現の理解に、読者の積極的な参加を期待する意図も感じられるのである。
 『竹取物語』の文章は、もとが漢文表記ではなかったかという説もあるくらい、主語述語の関係が整い、簡明で理解しやすい一面をもつ。しかし、この手紙の文章などは、決して簡明とは言えないだろう。でもこの簡明でない文章が、心の乱れを表現するかけがえのないすがただとしたら、その機微を精妙にことばに託す手だてとして、漢文表記ではない一字一音式の仮名表記がここに選ばれた必然を理解することができるのである。
 古文を読む楽しさは、その豊かな日本語の表現に秘められている。

【古典詩歌の勧め】 久保田淳

 よくみれば薺(なづな)花さく垣ねかな  芭蕉

 なずなは春の七草の一つである。冬を越したその葉を正月七日、七草がゆにして食べる。春、すみれやたんぽぽが咲くころになると、なずなも白いこまかな花を咲かせる。菜の花の仲間だから、花びらは四枚だ。しかし、とても小さいから、よほど注意しないと気づかない。芭蕉は垣根をのぞきこんで、その下に咲いているこの小さな花を見つめている。芭蕉の目は小さな存在を見過ごさず、そこにも備わる美しさを見いだす目である。

 あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月

 「あかあかや」とは、明るいなあという驚きのことばだ。「明るい」という形容詞を昔は「あかし」といった。この歌は「明るいなあ、明るいなあ」という感嘆の声をくりかえして、月の明るさを讃えているのである。月はきっと満月であろう。
 この歌の作者は明恵上人である。平安時代の末に生れて鎌倉時代の初め、日本の歴史の激動期を生きた。その間源平動乱や承久の乱などの内戦があったが、彼はひたすら信仰に励んだ。修行の合間に歌を詠んでいる。
 それらは身のまわりの自然に対して有情な存在に対すると同じような態度で接したものが多い。おそらくこの歌でも、明恵は夜空にくまなく満ち満ちているまどかな月の光に、仏の慈悲の光を感じているのであろう。すなおな心で自然と向かいあう時、自然は思いがけない神秘な顔を見せてくれる。

 うつそみの人なる我や明日よりは二上山をいろせと我(あ)が見む

 「うつそみ」は「うつせみ」と同じで、この世の人という意味、「いろせ」とは母親が同じ兄弟のことをいうことばである。「この世の人であるわたしは、明日からは、弟の葬られた二上山を弟として見るのだろうか」。
 この歌は突如弟を失った姉の悲しみの歌である。弟というのは天武天皇の皇子である大津皇子、歌の作者である姉は大伯皇女(おおくのひめみこ)という。
 大津皇子は謀反を企てたとされて命を断たれ、二上山に葬られた。死に際して、

 ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

と詠んだと伝えられる。あるいは皇子の死を悼んだ人々が歌ったものかもしれない。
 この皇子は山の中で恋人の石川郎女(いらつめ)を待って、

 あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに

とも歌っている。堂々とした体格で、文才もあった。人望も高かったという。
 二上山は頂が二つに分かれている。変った形の山で、大和平野のあちこちからよく見える。美しい山だ。
 これらの歌を収めている『万葉集』をひもとくと、古代の人々の愛や悲しみ、そしてまた喜びがいきいきと伝わってくる。
 いろいろな花が咲く。さまざまな鳥が囀る。日本の自然は美しい。古(いにしえ)の歌人俳人は三十一文字や十七文字という短いことばでその美しさを的確に表現してきた。それらの和歌や俳句を読むことによって、わたくしたちは改めて自然の美しさに気付かされ、自然の中で生きることの有難さを知るであろう。
 いろいろな人がいる。一人として同じ人はいない。しかしまた、だれしもが他を愛し、また愛されることを願い、喜びを求め、愛する者の死を悲しむ。そのような人の心は、昔から今まで変ることはない。そのことも昔の人々の残した和歌や歌謡などを読むことによって、確かめられ、納得されるのである。そしてそういう経験は励ましとなり、慰めとなって、わたくしたちに生きる力を与えるであろう。
 古典を読むこと、それは自然の不思議さを知ること、人間の心を知ること、そして人間として生きることを意味するのである。
 古典の詩歌を読もう。