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資料……猫関係㉑ 猫の演劇史

【これは以前にはてなハイクに書いたもののコピーです】



随筆・猫の文化史44
猫の演劇史
大木卓 動物文化史研究家

 去年の 8月号に「猫の芸能史」というのがありましたが、あれはお猫さま自身が演芸する話。これは人間が演ずる劇または人形劇に猫がテーマになっていたり、猫の役が登場する例です。

西洋の猫劇

 猫の居ない国へ猫を高価に売って大金持ちになったというイギリスの有名な伝説ディック・ホィッティントンと猫の物語は、古くから欧亜大陸にあった出世伝説を、1423年に死んだとされるリチャード・ホィッティントンというロンドン市長を経験した実在の富豪に結びつけた話で、16世紀には彼と猫の伝承はでき上っていたらしく、1605年には戯曲になったということです。1710年頃、イギリスで、ホィッティントンと猫を人形芝居で興業した人があったそうで、19世紀から20世紀初にかけてのイギリスの児童劇では、人気のある出し物になっていました。
 ホィッティントンの戯曲ができたのと同じ頃、シェイクスピアの『マクベス』(1605〜6年)には妖術使い(魔女)が登場し、そのせりふの中に猫が出てきて、妖術使いの伴侶としての猫のイメージがドラマにも定着していました。この頃はいわゆる魔女裁判の時代で、シェイクスピアと同時代のイギリスの劇作家トマス・ミドルトン(1570頃〜1627年)の『魔女』The Witch.にも猫が出ます。一説に『マクベス』の影響が強いとされるこの戯曲は、出版されたのがずっと後の1778年で、いつできたかははっきりしません。
 ベルリン生まれのドイツ・ロマン派の作家ルートヴィヒ・ティークが1797年に出した風刺劇『長靴をはいた牡猫』Der gestiefelte Kater.は、当時の評論家ベッティゲルを風刺したものですが、ペローの童話から取材した長靴をはいた牡猫の芝居が上演されているのを、土間で何人かの観客はそれをみて感想を述べながら観劇しているという奇抜な趣向になっています。
 フランスの猫好きの女流作家コレットの『動物の七つの対話』Sept Dialogues des Bêtes.は1897年にかかれた戯曲形式の作品で、セルバンテスの2ひきの犬の対話に似ていて、キキという猫とトビイという犬の問答になっています。ベルギーのメーテルリンクの童話劇『青い鳥』L'Oiseau Bleu.は1908年の作品で、登場する猫チレットはあまりよい役ではありません。

狂言

 日本の作品では、まず能狂言に『鶏猫(けいみょう)』というのがあります。大蔵流和泉流、鷺流それぞれにあったようですが、大蔵流茂山千五郎家の現行台本が『日本古典文学全集』35「狂言集」(1972年、小学館)に活字化されており、冨山房百科文庫35『狂言三百番集』下(1942年)には、大蔵流八右衛門派のものが納められています。古い正本では寛永19年(1642年)に大蔵流宗家13世の虎明(とらあきら)が筆録した本が大蔵流宗家に所蔵されており、その影印本『大蔵家伝之書・古本能狂言』3巻(大蔵彌太郎編。1976年、臨川書店)に入っています。それぞれ内容に小異がありますが、虎明本によってあらすじを述べてみます。
 伊予の国の守護人、河野の某が、秘蔵の猫を見失ったので、猫の行方を知らせてきた者には望み通りの恩賞を与えるとの高札を立てさせます。領内の藤三郎という者の子供がこれを読んで、猫は藤三郎が殺してしまったと届け出ます。河野は藤三郎をひっとらえ糾問しますが、はじめはシラをきっていた藤三郎も、息子が訴人したとわかって観念し、実は自分の大切にしていた鶏を御前の猫殿がくわえて御逃げになったので、そばにあった枕を投げつけたところ、猫殿の御頭(つむり)に当って空しくお成りになったと白状しました。
 河野が腹を立てて藤三郎を成敗しようとすると、子供は親の命乞いをします。それではなぜ訴人して出たと問うと、他人からうったえられたのではとても命は助かりませんから、自分が証人として立ち、猫の行方を申し出た者には望みをかなえるという御約束でしたので、親の命を助けて賜わりたい。それが叶わなければ私から先に首を切って下さいと、藤三郎の子は必死にたのみます。守護人は、子供の孝心と思慮に感動して藤三郎をゆるす、という結末になっています。
 そういうわけで、『鶏猫』には、猫は話として出るだけで、舞台には登場しません。この狂言は中国の故事からとった能『羊』を猫につくり変えて狂言にしたものであろうとされており、江戸初期か桃山時代にさかのぼる作品でしょうが、当時の猫の愛玩の風がとり入れられているのだと思います。

浄瑠璃

 人形浄瑠璃は、今日の文楽がその代表例で、義太夫節などの音曲語りを伴なった人形劇ですが、その脚本は後に歌舞伎にもよく移されました。
 近松門左衛門添削とある『猫魔達(ねこまた)』(朝日新聞社刊『近松全集』五巻、1926年)は、元禄10年(1697年)頃の作とされ、後世の猫騒動ものの早い例で、下関の押領使の娘小夜照(さよてる)姫に大貳という坊主が言い寄って叶わず、一念猫又と化す発端は、明治の泉鏡花の小説『黒猫』にヒントを与えているようです。「から猫が牡猫(おねこ)よぶとて薄化粧、するはしほらしや、猫さへも、夫(つま)ゆへしのぶに我身は」ではじまる近松門左衛門作の『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)』は、天和3年(1683年)に処刑されてうわさになった京の大経師の家の女房と手代、おさん茂兵衛の密通事件を扱かった浄瑠璃で、正徳5年(1715年)初演とされ、文句は猫づくしになっていて、人の恋に猫の恋を比較して叙述が進みます。「ヲゝかわいやと猫なで声。にゃんにゃんあまへる女ねこの声。もれてやよそに妻恋の牡猫(おねこ)の声ごゑ」。猫なで声というと、猫が人になでられた時に出す声と説名してある字引もありますが、ほんとうはこのように、人間が「かわいい、かわいい、ネコちゃんや」などと猫をなでたりする時に出す声をいうのです。
 文耕堂、竹田小出雲その他の合作『今川本領猫魔館(いまがわほんりょうねこまたやかた)』は元文5年(1740年)作ならびに初演で、『猫魔達』にいくらか近い系統の浄瑠璃ですが、文中には猫についての故事や知識をふまえた戯文が随所にちりばめられています。

歌舞伎

 今尾哲也氏(『国文学・解釈と教材の研究』27巻12号「猫の文学博物誌」1982年)によると、貞享3年(1686年)刊の評判記『野良児桜』に江戸の芝居小屋をかいた絵があり、山村座では『猫は根本執念の源本』、森田座では『俤(おもかげ)の白粉猫の妻妬』、『野江口猫又三世執心』などの演目が読みとれるということです。猫をテーマとした芝居では古いものでしょうが、内容はわかりません。どうせあんまり面白いものではありますまい。
 『歌舞伎年表』(伊原敏郎著、岩波書店)から元禄頃の演目を拾ってみますと、まず、元禄元年(1688年)2月、江戸の長州侯の邸で勘彌座の狂言『猫は軒端の花』、『猫之執心飛行』。あとの方は猫が宙を飛ぶような軽業があったらしい。元禄9年秋には京の万太夫座で『猫又の狂言』。同14年3月には同じ座で、近松門左衛門作という『唐猫変成男子(からねこへんじょうなんし)』と題するヘンな出し物が上演され、主役は後に絵島事件で浮き名を残した生島新五郎。なんでも猫が人間の男に化ける話だったようです。
 四世鶴屋南北(大南北)の『獨道中五十三驛(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』(文政10年、1827年作。同年6月江戸河原崎座で上演)には、池鯉鮒(ちりう)八つ橋村の場で猫が踊ったり、十二単衣をきた怪猫が出たり、鞠子在の古寺の場に猫石の怪が登場します。去年、東京の歌舞伎座で当代(三代目)市川猿之助が取り上げて、猫石の怪が火車となって飛行する様を大がかりな宙乗りで復活し当りをとりましたが、愛猫家はあんまり御覧になってないと存じます。この南北の作品以後、五十三次ものにはよく猫を出すようになり、河竹黙阿弥の『吾嬬下(あづまくだり)五十三驛』(安政元年、1854年、江戸河原崎座大内裏の大猫。同じく『五十三驛扇宿附(おうぎのしゅくづけ)』(明治20年、東京中村座。一名『岡崎の猫』)その他があります。
 嘉永6年(1853年)9月、江戸は中村座『花埜嵯峨猫■〈鬼偏に歴〉稿(はなのさがねこまたばなし)』はいわゆる佐賀鍋島の猫騒動で、鍋島家より故障が入って看板を上げただけで中止になったという曰くつきの代物。後に明治になって盛んに行われました。有馬の方は黙阿弥が講談から取材して『有松染相撲浴衣』と題し、明治13年5月、東京の猿若座で初演となっています。
 歌舞伎にでてくる猫は、人間が演ずるのと、造り物の猫とがあります。変化(へんげ)する
ものでは人の姿のまま耳を出したりして怪猫になり、或はぬいぐるみの中に人が入って登場するのもあります。黙阿弥の『岡崎の猫』の猫が踊る場面では、指金(さしかね)という竿の先に本物の猫くらいのぬいぐるみをつけて踊らせるのです。

 前号の補足。文化5年刊、式亭三馬作の合巻『金花猫婆化生屋鋪(ねこまたばばけしょうやしき)』全六巻は、本題『復讐両■〈俣の旁+月〉塚(かたきうちふたまたづか)』で、副題が上記のようになっています。三馬の没後、天保9時に副題の方を表に出して改作した『金花猫婆化生屋鋪』六巻合本三冊が大海舎金龍作として出ました。どちらも本文全三十丁の合巻です。