東京新聞1月12日付夕刊に「クロスロード 人生のとき」という良い記事が載っている。
この記事は東京新聞のウェブサイトには無く、13日付の毎日新聞にも同じ記事が載ったようで、毎日新聞のウェブサイトにはあるが、有料記事のため有料登録しないと一部しか読めない。(どうやら共同配信の記事のようなので他にも載っている新聞があるかも知れない)
新聞のウェブサイトは載ってもいずれ抹消されるのだろうし、せっかくの良い記事なので、ここに全文を再録する。
【クロスロード 人生のとき】
闇の向こうの景色求めて
女優サヘル・ローズさん 孤児院で運命的出会い
「世界で苦しむ子の希望の光に」
出会いは偶然だった。「私たちをもらってくれませんか」。イラン政府は1990年代、テレビで孤児たちの養子縁組を募集していた。80年に始まったイラクとの戦争は8年後に停戦合意。しかし戦禍の傷痕は深く、多くの幼子が親を失った。
たまたまテレビを見た大学生フローラ・ジャスミンの目は孤児院の少女にくぎ付けに。「小柄でかわいい。会ってみよう」。後の女優サヘル・ローズだった。
▷養子縁組
大学で心理学を専攻していたフローラは、医師や看護師らと戦場で救出活動ボランティアの経験があった。フローラと面会した七歳のサヘルは無邪気に「お母さん」と呼ぶ。「見つめられ、その『視線』から自分が生まれたような感覚」とサヘルは振り返る。面会を重ねた後、フローラはサヘルに語りかけた。「私の子どもになる?」
フローラの両親は当初反対した。イランで養子縁組するには子どもを産めない手術が必要になる。「そこまでして、どうして私を」。サヘルの疑問が氷解したのは大人になってからだった。
フローラは幼い時に育児放棄され、祖母に育てられた。サヘルは言う。「一番大切な時に親の愛情を受けていない。自分の境遇と重ね、私に孤独を味わわせたくなかったのでしょう」
サヘルを養子にしたフローラは家庭教師のアルバイトで生計を立てていた。だが生活は苦しく、頼みの綱は日本で働く夫。93年8月、二人は混迷深まる国から日本へ旅立った。
▷一杯のラーメン
新天地の生活もいばらの道に。三人は埼玉県のアパートで暮らしたが、次第に関係がぎくしゃくしてしまう。来日から三週間後の夜、フローラとサヘルは家出した。頼れる人はいない。向かった先は公園だった。
滑り台下のコンクリート製土管が「寝室」。サヘルは朝、公園の水道で顔を洗ってから小学校へ。フローラは来日後から働き始めた化粧品瓶製造工場に出掛けた。
夕方に公園で待ち合わせし、近くのスーパーに行く。賞味期限近のパンの耳を買って空腹をしのいだ。学校側も異変に気づく。毎日、同じ洋服。どんどん汚れる。ある日、サヘルは校門で「給食のおばちゃん」に「大丈夫?」と声を掛けられた。フローラと一緒におばちゃんの家に一時、身を寄せる。二週間のホームレス生活は終わった。
その後、フローラは離婚。仕事を変え、二人はアパートを転々とした。唯一の楽しみはスーパーのフードコートで、しょうゆラーメンを食べること。注文は一杯だけ。フローラは一口だけ食べると「後は食べて。お母さんのおなかは小さいけら」とサヘルに勧めた。彼女の習い事や学費を賄うため、食費を切り詰めていた。
▷小さなバラ園
サヘルは凛としたフローラの行動に、いつも驚かされた。おにぎりを路上生活者に手渡したこともある。「私は今、我慢すれば明日は食べることができる。この人は明日も、あさっても我慢しなければならない」
サヘルは中学生の時、上履きを校舎の窓から捨てられるなどのいじめに遭う。悲観という袋小路に入り、自殺を考えた。フローラに打ち明けると「いいよ」と意外な返事。「でもお母さんも一緒に連れて行って。サヘルがいないと生きる意味がないから」。言葉の一つ一つがサヘルの心の琴線に触れた。
サヘルは戦争で人生が翻弄された。一方で「フローラも私を養子にしなかったら、幸せな生活を送ったかもしれない」と呵責の念にも襲われる。
そうしたサヘルの心のひだを見透かしたようにフローラはやさしく諭す。「あなたは生き延びたんだよ。世界で苦しむ子の希望の光になってほしいの」。迷い、悩み、不安に押しつぶされるようになる時、サヘルは「試練という名の遠足」と前を向くようになった。
高校在学中、ラジオのリポーターをきっかけに芸能界入り。女優の傍ら、虐待された子どもや、海外の貧しい子への支援を続ける。自分の体験を通して「闇の向こうには新しい景色が広がっている。自分で地図を描けることを子どもたちに伝えたい」と訴える。フローラからのバトンを引き継ぐかのように。
フローラと一緒に暮らすサヘルは約四年前、自宅近くの空き地を借りた。フローラや近所の人と小さなバラ園(約50平方㍍)を造るためだ。毎年五月、バラの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
フローラが付けた「サヘル・ローズ」という名前。サヘルはサハラ砂漠乾燥地帯、ローズはバラの花を指す。バラは砂漠で育ちにくい。「困難でも力強く生きて」という願いが込められている。
血はつながっていなくても、数奇な運命の糸で結ばれた二人。「これからは私が支える番」。サヘルは病気がちなフローラを気遣った。
(敬称略、文・志田勉、写真・牧野俊樹=いずれも共同)
《戦争加害者と被害者》
[橋渡しの役割 担いたい]
2019年、サヘルはイラクを訪れた。フローラから「イラクを絶対に憎んでは駄目よ。あなたと同じような孤児がいるのだから」と言われていたからだ。
イラン攻撃の最前線にいたイラクの元兵士と会った。サヘルがイランの孤児だったと伝えると、元兵士は「戦いたくて戦ったわけではない。本当に許してほしい」と涙ぐんだ。
明日という日を迎えるために、武器を持ち、知らない人たちに銃を向けた元兵士の苦悩。「初めて戦争の怖さを知った」とサヘル。加害者と被害者。両者の心の傷を溶かそうと、サヘルは橋渡しの役割を担おうとしている。
《サヘル・ローズの歩み》
1993年:養母のフローラと一緒に来日
2004年:東海大入学
2006年:テレビのリポーター始める
2018年:写真詩集「あなたと、わたし」出版
2019年:イタリア・ミラノ国際映画祭で最優秀主演女優賞受賞

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サヘルさんも素晴らしいが、フローラさんの生き方にはひたすら感動するのみ。
不妊手術を受けないと養子縁組ができないというイランの法にも驚くが、それでもサヘルさんを養女としたフローラさんの生き方は聖人として末代まで称えられて良いと思う。